ウォーキング中にラジオの電池が切れたとき、その空白を埋めたもの

寝間着のズボンをぬいでジーンズに履き替え、フリースの上に薄手のジャンパーを羽織る。ペンライトがつくか確かめる。


ルーティーンの仕上げに、中華製mp3プレーヤーの電源を入れてみる。電池のマークが真っ黒である。


「あれ? バッテリー切れ?」


テレビを観ていた母ちゃんが振り向く。「そんなことないでしょ。母さんが充電しといたのに」


「そうか、バッテリー切れじゃなくて充電100パーってことか。なら安心だな」


家を出て3分後、とつぜんラジオが切れる。


ラジオなしで歩けるか不安であったが、ウォークマンをとりに戻るのも面倒だった。そのままいつもの散歩コースを進む。


5分くらい歩いたとき、思う。「やっぱただ歩くのは苦痛だぜ。せっかくだからブログネタでも考えてみるか」


思いついたのは、「人生という名の病」問題である。


人は生まれ、生きて、死ぬ。それだけである。


だが、考える葦たる人間は、「いやいや、それだけじゃないでしょう」と抵抗してしまう。そこに理由やらアイデンティティやら目的やら夢やら物語やらネットワークやらといったカタチ=秩序を見出そうとする。打ち立てようとする。それが自分という確固たる存在を保証するとでもいうかのごとく。


なんの変哲もないただの石を見て、その石が最初から内に持っているモチーフを透視しようとする彫刻家のように。


雨雲が迫る中、公園の砂場で城を作ろうとしている子供みたいに。


当人たちは、石の中のモチーフや砂のお城にそれなりの意味や価値を見出しているかもしれないし、あるいは、大いに不満を感じているかもしれない。


しかし、興味深いことに、世界は石の中のモチーフにも砂のお城にも無頓着なのだ。


車は平気で彫刻家をハネるし、サファリパークのライオンもジープから落ちた子供に遠慮なく牙をたてる。雷だってわざわざ彼らを避けて落ちたりはしない。


世界は、彼らの作品の完成を待たないし、興味もないし、忖度もしない。終止符をうつことにもためらいがない。


そして人間の殻たる肉体はあまりにも脆い。


人生とは、外的要因に影響され、風向きに左右され、吹けば飛び、偶然や運否天賦に支配されるものだ。ランダムなものなのだ。無秩序なものなのだ。


もちろん、彫刻や砂の城を作るのがめっぽう得意で、それで人々から称賛されたり大金を手にし、世界との強固な結節点を確立した(ように見える)人もいる。称賛されたり大金を手にしなくても、それなりの自己満足を得ているものもいる。


でも、人間、得手不得手がある。彫刻も駄目だし、砂の城も駄目って人もいる。それなのに、みんながみんな躍起になって、人生というカオスを材料にして形あるものを作り出りだそうとするのは違うのではなかろうか。いや、作り出そうとしてもいいが、ほどほどでもいいのではなかろうか。べつにうまくいかなくてもいいのではなかろうか。


それでもみんな何かに駆り立てられるように、それがなにかの証でもあるかのように、自分という存在を根拠付けるかのように、混沌の中に意味ありげな秩序を打ち立てようとしている(ようにおいらには見える)。そう、みんな病んでいるのだ。人生という名の病にかかっているのだ。人生というものにとらわれすぎているのだ。


もっと混沌やゆらぎを受け入れて、軽やかに生きていってもよいのではないか。あるいは漂っているだけでもよいのではないか。


――なんてことを考えながら歩いていると、まさに人生という名の病の集合体=文明が作り出した「クルマ」なるものがビュンビュン横を通り過ぎていく。


クルマ、悪くないよな、と思う。


それに、痩せて高橋一生になって乙女とおセッセするという「目的」のためにウォーキングしているおいらと、思考内容のそぐわなさ加減といったら。。。しかもおいらは、玄人じゃなくて、素人との「気持ちの入ったおセッセ」という壮大な「物語」を思い描いていて。。。思いっきり「人生」を病みまくっているではないか。。。


うん。「人生」という名の病は不治の病なのだ。どうせ死ぬまで治らないのだ。だからあんまり考えたところでしかたないのだ。


そこで、おいらの思考の電池が切れた。歩きながら考えるのは意外にむつかしい。


というわけで今夜は5km歩いた。



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