この歳で振られることの何がきついって

おいらはよくコーヒーと緑茶を飲むんだけども、気づいたらいつも机の上に使用済みカップがいくつも並んでいる。


飲み終わるたびに流しに持って行って洗えばすむことであるし、じっさい洗おうと思うのだが、パソコン作業(といってもYouTubeを再生しに行くか、オトナの動画を再生しに行くか、ブログ書いてるかだが)しているあいだにすっかり忘れてしまい、「なんか喉が渇いたな」となり階下に降りて新しいカップに飲み物を入れてくるのである。で、席に戻ったときに「しまった!」と。


歳のせいなのか、それとももともとそういう性分なのか。


歳といえば、おいらが本気で彼女を作ってみようと思い立ってマッチングアプリをはじめたのが、38歳のときである。なにごとによらず、いつも手遅れの頃に思い立つのがおいらなのだ。


で、げんざい41歳。気づいたら、膨大な数の失恋カップが並んでしまっている。振られるたびに何がダメだったか反省し、戦略を洗いなおして挑めば少しは違った結果になったのかもしれない。


だが、コーヒーや緑茶の例と同じく、「なんか、いろいろ渇いたな」となって、以前に使ったカップ群はそのままに、真新しいカップに愛を汲みに行っちゃうのがおいらなのである。


そんな稚拙な戦略であっても、本人に魅力さえあれば、数撃ちゃいつか当たるものだ。


でも、おいらがこの三年間で当てたのはまぐれの一回のみ。この事実が指し示すのは、要するにオスとしての魅力や価値にとぼしいってことだ。


自分にはオスとしての魅力や価値がないことを思い知らされること。中高年の男が振られることで一番きついのはこれである。


べつに、目の前の女性がモノにならないことがきついのではない。人間、40も過ぎると、相手にときめく能力さえも減衰する。この歳にもなると、べつに特定の誰かとつきあえなくたって、そんなにがっかりしたりはしないのだ。その人じゃなきゃだめだっていう執着もないのだ。


でも、会う女性会う女性から、オスとしての魅力に「否!」をつきつけられること。誰にも相手にされない事実をつきつけられること。オスとして失格の烙印を押されること。これがほんと、ボディーブローみたいにじわじわ効いてくる。脚に力が入らなくなり、生まれたての小鹿みたいにわなないて、12Rも立っていられなくなるのだ(それにしても、おいらの12Rは何歳くらいなのだろう。今何ラウンド目なのだろう。あと何年戦えるのだろう)。


いまは誰ともやりとりしていなくって、いわばラウンド間のインターバル休憩中である。


長いインターバルになりそうな予感だし、喉も乾いたので、ここいらでちょっとリングを降りて、溜まりにたまったカップを洗ってみようかしらね。少なくとも洗いおわった瞬間くらいはスッキリした気分になれるかもしれないものね。それにもしかしたら、その洗い立てのカップに愛を注ぎたいというもの好きな乙女が現れるかもしれないものね。