スガシカオ『ぬれた靴』

なれないスーツとひどいドシャ降りで
なんだか疲れきってしまった

式の帰り道で誰かがいい出して
うすぐらい中華屋にはいった

(中略)

ぬれた靴の中がかわいてしまうまで
ぼくらはどうでもいい言葉をつないだ

通りに面したガラス窓がくもって
ぼんやりと世界を隠した

(中略)

ぼくはあの夏の日からどれだけきたんだろう
たいした事もできず…みんなそう思うのかなぁ

ぬれた靴の中がかわいてしまうまで
ガラス窓の外で雨がやんでしまうまで



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音楽とか映画とか小説とかの創作物で


「やまない雨はない」


みたいな手垢まみれの常套句に遭遇してうんざりした経験はないだろうか。


オリジナリティを捨てて安手の表現に飛びつくその安直さに、それで表現者を名乗る厚顔さに、知ったふうな根拠なき気休めに、苛立った経験が。


スガシカオのメタファーは違う。「ぬれた靴」。主人公のそれまでの人生の歩み、そして今や「歩行」がままならず停滞し、機能不全を起こしている人生を想起させる表現である。しかもたったの四文字で。


主人公はぬれた靴がかわくまでのつもりでうすぐらい中華屋に入り、どうでもいい言葉をつなぎ、昨日の夜や去年の今頃と代わり映えのしない話をする。


だが、考えてみてほしい。ひどいドシャ降りでぐっしょりぬれた靴が、中華屋にいる間にかわいてしまうものだろうか。しかもおそらくは履いたままで。


それでも主人公は「ぬれた靴がかわいてしまうまで」中華屋にいるつもりである。


だが結局、歌詞の中では、最後までぬれた靴はかわかない。


雨も降り続ける。


うすぐらい中華屋。外界を遮断するくもった窓。その中でループする話題。ぬれたままの靴。やまない雨。遠いあの「夏」の記憶。


そこはいわば出口のないサーキット(環)であり、彼の閉じた精神世界なのである。


抜け出す手立てもなければ、椅子から立ち上がる気配もなければ、気休めさえ存在しない。なんとも身の毛のよだつ世界ではないか。