なんどもおいらのブログを訪問しているコアな読者の意識には、おいら=「大都会岡山」のイメージが刻印されていることと思う。
そう、根っからのシティーボーイだと。
でもじつはおいら、熊本生まれなのである。
両親ともに熊本出身だが、父親が高校卒業と同時に岡山に就職、その後、お見合い結婚をへて、母ちゃんも岡山に移り住んできたという具合である。
母ちゃんがおいらを身ごもると、岡山より熊本で産むほうがあんしんだろうと判断し、熊本の産婦人科でおいらを産み落としたのだ。
母ちゃんの話によれば、産婦人科の女性看護師たちがこぞっておいらを見に来たという。
おいらが赤ん坊とは思えないほど立派なものをもっていたからである。
(それなのに、どうして今はこんなんなんだろう。。。)
おいらは物心ついたときから、熊本の祖父母のとこに行くのが楽しみでしかたなかった。両親とも運転免許をもっておらず、父親は家庭をかえりみなかったので、おいらと弟はきほん、どこにもつれていってもらえなかったからである。

とりわけ父方の祖父母の家がたのしみだった。かれらは商店を経営していたのでアイスやお菓子をたくさん食べられたし、なにより家のすぐ目の前に小学校があるのがたまらなくたのしかった。
小学校のすぐ目の前にある家に住んでいたから、父方の祖父母のことを、「学校前じいちゃん」「学校前ばあちゃん」とおいらと弟はよんでいた。

南阿蘇村立 両併(りょうへい)小学校

元「学校前じいちゃん」の家。いまは売却し、「ジアス カフェ」というカフェができている(げんざいはコロナのため閉店中)
おいらが3~5さいくらいのときはよく行方不明になってたが、たいていこの小学校で見つかった。小学生にまじって教室で授業をうけてたり、プールに飛び込んだりしていたのだ。
それよりもうちょっと大きくなると、アスレチックスであそんだり、鉄棒をしたり、じいちゃんのゲートボールのスティックをつかってゴルフのまねごとをしたりした。
さいしょは弟や従兄弟たちと遊んでいるのだけれど、きがつくといつもおいらはひとりとりのこされていた。みんなすぐに飽きて、ひとりまたひとりと、じいちゃんちに戻ってしまうのだ。
そして、午後の遅い時間や夕方の校庭に、チャイムがわりの「聖者の行進」がなりひびくと、おいらはいつもあそぶのをやめて、ひとり、そのメロディーに聴き入ったものだった。
あかるく軽快なメロディーのはずなのだが、小学生のおいらにはどこか物悲しく聞こえた。
あんなに暑くてまぶしかった太陽がこうして山のむこうに沈んで消えていく。それと同じように、この永遠とも思えるほど長い夏休みにも、いつか終わりが訪れる。そして、ほかのものごとにだってみんな終わりがあるんだ、という認識が、なにかのお告げみたいに、軽快なはずのメロディーとともに少年のこころに流れ込んできたのだ。
おいらはなかば放心状態で、いまごろ学校前じいちゃんちでわいわい騒いだりアイスを盗み食いしたりしてる弟や従兄弟のことを想い、ふしぎな気持ちになった。
かれらはきづいてないんだ。おれだけなんだ、みんな終わっちゃうってことに気づいてるのは、と。
「聖者の行進」の最後の音がどこかに吸い込まれて消えてしまうと、おいらははっと我に返り、あそびを再開した。
かあちゃんが呼びに来るまでまだ時間はある。
それに、夏休みはまだまだこれからなのだ。





そう、根っからのシティーボーイだと。
でもじつはおいら、熊本生まれなのである。
両親ともに熊本出身だが、父親が高校卒業と同時に岡山に就職、その後、お見合い結婚をへて、母ちゃんも岡山に移り住んできたという具合である。
母ちゃんがおいらを身ごもると、岡山より熊本で産むほうがあんしんだろうと判断し、熊本の産婦人科でおいらを産み落としたのだ。
母ちゃんの話によれば、産婦人科の女性看護師たちがこぞっておいらを見に来たという。
おいらが赤ん坊とは思えないほど立派なものをもっていたからである。
(それなのに、どうして今はこんなんなんだろう。。。)
おいらは物心ついたときから、熊本の祖父母のとこに行くのが楽しみでしかたなかった。両親とも運転免許をもっておらず、父親は家庭をかえりみなかったので、おいらと弟はきほん、どこにもつれていってもらえなかったからである。

とりわけ父方の祖父母の家がたのしみだった。かれらは商店を経営していたのでアイスやお菓子をたくさん食べられたし、なにより家のすぐ目の前に小学校があるのがたまらなくたのしかった。
小学校のすぐ目の前にある家に住んでいたから、父方の祖父母のことを、「学校前じいちゃん」「学校前ばあちゃん」とおいらと弟はよんでいた。

南阿蘇村立 両併(りょうへい)小学校

元「学校前じいちゃん」の家。いまは売却し、「ジアス カフェ」というカフェができている(げんざいはコロナのため閉店中)
おいらが3~5さいくらいのときはよく行方不明になってたが、たいていこの小学校で見つかった。小学生にまじって教室で授業をうけてたり、プールに飛び込んだりしていたのだ。
それよりもうちょっと大きくなると、アスレチックスであそんだり、鉄棒をしたり、じいちゃんのゲートボールのスティックをつかってゴルフのまねごとをしたりした。
さいしょは弟や従兄弟たちと遊んでいるのだけれど、きがつくといつもおいらはひとりとりのこされていた。みんなすぐに飽きて、ひとりまたひとりと、じいちゃんちに戻ってしまうのだ。
そして、午後の遅い時間や夕方の校庭に、チャイムがわりの「聖者の行進」がなりひびくと、おいらはいつもあそぶのをやめて、ひとり、そのメロディーに聴き入ったものだった。
あかるく軽快なメロディーのはずなのだが、小学生のおいらにはどこか物悲しく聞こえた。
あんなに暑くてまぶしかった太陽がこうして山のむこうに沈んで消えていく。それと同じように、この永遠とも思えるほど長い夏休みにも、いつか終わりが訪れる。そして、ほかのものごとにだってみんな終わりがあるんだ、という認識が、なにかのお告げみたいに、軽快なはずのメロディーとともに少年のこころに流れ込んできたのだ。
おいらはなかば放心状態で、いまごろ学校前じいちゃんちでわいわい騒いだりアイスを盗み食いしたりしてる弟や従兄弟のことを想い、ふしぎな気持ちになった。
かれらはきづいてないんだ。おれだけなんだ、みんな終わっちゃうってことに気づいてるのは、と。
「聖者の行進」の最後の音がどこかに吸い込まれて消えてしまうと、おいらははっと我に返り、あそびを再開した。
かあちゃんが呼びに来るまでまだ時間はある。
それに、夏休みはまだまだこれからなのだ。





コメント
コメント一覧 (4)
シチーボゥイのにおひしかせんが
まっさ
が
しました
もたもたしてるとすぐに夏は終わりますし、秋が来る前に素敵なパートナーみつかればいいですね。
まっさ
が
しました