レストランに着いたとき、まだ17:30だった。約束の時間より30分も早い。
ふだん身につけない腕時計から目をあげ、車内から駐車場を見渡してみる。小ぢんまりとした店のわりに、広い駐車場だった。暗くてがらんとしている。奥まったところに一台、白い車がとまっているだけだ。おそらく、店内で暇そうにしている女性店員のものだろう。
彼女はまだ来ていない。
スマートフォンでマッチングアプリPairsを立ち上げ、彼女のプロフィールとメールのやりとりに目を通す。それからBUMP OF CHICKENの『話がしたいよ』の歌詞を読む。音楽評論家による詩の解釈もあわせて読む。
車の走行音を耳にしたり、ヘッドライトが駐車場に差し込むたびに、ハッとして画面から顔をあげる。
洒落た軽自動車が入ってきたのは、もうすぐ18:00になろうかという頃だった。こちらから三つぶん離れたスペースに停車する。暗くて見えにくいが、運転席の女は、おそらく彼女だ。
私は車からおりて、店の前に立った。大げさに体を縮めて両肩をさすった。
10秒ほどして小柄な女が降りてきた。「今日はよろしくお願いします」と彼女は言って微笑をうかべた。
こちらこそよろしくお願いします、と返すのが精一杯だった。このときのために用意してきた冗談を言う余裕はなかった。
店に入ると、予約した者だがと店員に告げた。告げる必要はなかった。我々のほかに客は一人しかいなかったのだ。お好きな席へどうぞ、と店員は言った。
どこの席に座りたいか訊いてみたが、どこでもいいと言うので窓際の席にした。ぬかりなく、上座に座らせた。
運ばれてきたメニューを二人で見る。「あれ、オムライスがあったはずなんだけど」メニューをめくりながら彼女は言う。
オムライスが名物なんですか、と訊いてみる。店を決めたのは私だが、一度も来たことがなかったのだ。
「そうなんです。あ、あった。セットにしようかな。どのセットにしよう」
私はハンバーグとのセットを選んだ。彼女も同じものにした。
注文を終えると、お互いに視線を外す口実がなくなった。
彼女は5つ下の34だった。目尻のしわがやや目立つが、かといって34より老けては見えない。細身で、顔は写真より可愛らしく見えた。服装を褒めようとしたが、先に彼女が口を開いた。
「何時ごろお店に着いたんですか? 待ちましたか?」
5時半に着いた、と私は答えた。思ったより道が混んでなかったので。
すみませんと彼女は謝った。
いえいえ。勝手に早く着いただけです。
「会社、このへんでしたよね」
私はつとめている会社の名前を言った。
「そこ、叔父さんがつとめてました。中野って人ご存知ですか?」
その名前なら何人か知っているけれど、どの中野さんかわからないです。
「そうですよね」、彼女は言って苦笑いする。
おつとめ先の病院は確かこの辺でしたよね?
「え、ええ。この辺の病院です」。それ以上詳しくは言いたくない様子だった。「一人暮らしされてるんですか?」
実家暮らしだと私は答えた。アプリのプロフィールに書いてあるがと思ったが口には出さなかった。
「ずっと岡山ですか?」
京都で暮らした大学時代をのぞけばそうだ、と私は言った。
「私もです。学生時代は神戸で過ごしましたが、あとは岡山です」
管理栄養士の専門学校か短大ですか?
「いえ、大学です」
管理栄養士になるって早い段階で決めてたんですか?
「いえ、就活で一般企業がなかなか受からなくてそれで」、そう言って彼女は笑顔を見せた。
勉強は大変でしたか?
「あんまり勉強はしなかったです。卒業間際に集中してやった感じです」
単位をたくさん取らないといけないのでは?
「そうなんです。だからあんまり遊べなかったです。学部はなんでしたか?」
文学部です。同じくあんまり勉強しなかったです。
「意外ですね! メーカーにお勤めだから理系だと思ってました。何を専攻されてたんですか?」
日本文学です。本ばかり読んでました。読書はされますか?
「まったく読まないですね」
でも、BUMP OF CHICKENの歌詞を読み込んだりはしないんですか?
「しないです。車で流して聞いてるだけです。かっこいいから聞いてる感じです」
実は会話がとぎれたときのために、話のネタとしてBUMPの曲を予習してきたんです。YouTubeで検索して上から下まで順番に聴きました。
彼女は笑った。
『話がしたいよ』って曲があるでしょう? あの歌詞ってけっこう深いと思うんですよ。
「どういう歌詞でしたっけ?」
バスが来るのを待っている青年のお話です、と私は言った。おそらく心療内科から帰るところです。とくにやることもなくて時間を持て余している。で、ガムを口に入れるのと同時に内面世界に深く入っていくんです。元カノとの思い出を回想したり、宇宙空間を突き進む惑星探査機ボイジャーに思いをはせたりする。そしてガムを吐き出すと同時に外の世界に戻る。いつまでも閉じこもってるわけにはいかないですからね。バスが到着し、ドアが開く。そういう内容です。
「へえ」とあまり関心なさそうに彼女は言う。「ごめんなさいね、せっかく予習してきてもらったのに」
いえいえ。
スープが運ばれてきた。彼女がスプーンを取ってくれた。
美味しいですね。
「美味しいですね」
我々は黙ってスープを飲んだ。しばらくして彼女は思い出したように口を開いた。学生時代なにかスポーツはやっていたか、という質問だった。
メールのやりとりで既に詳しく答えていた質問だが、そのことには触れないで、もう一度同じ説明をした。
やがて料理が運ばれてきた。我々はスペースをあけるために、スープを脇へ移動させた。「どれを使いますか?」、食器の入った入れ物を指して、彼女は訊いた。
スプーンだけで大丈夫です、と私は答えた。
我々は気の抜けた会話をした。
「見た目、お若いですよね。39にはとても見えません」。そうですかね。きっと社会の荒波にもまれてないからかもしれません。お仕事はお忙しいですか?「忙しいことは忙しいですけど前のブラックな職場と比べればマシです」。ブラックだから転職されたんですね。「ええ。それと結婚もしたので……。あまり食事が進んでないですけど、少食なんですか?」。ダイエットを始めたせいか食が細くなりまして。よく胃が小さくなるといいますけど、そんなことはないですよね? 「ないです。満腹中枢が少しの量に慣れるだけだと思います」
時の経過につれて、会話は途切れがちになっていった。沈黙の間、私は天井を見上げ、彼女はひたすら食事を口に運んだ。
彼女がデザートを平らげ、コーヒーを飲み干したときには19:30になっていた。私は声をかけた。
では、明日も仕事ですし、そろそろ。
会計は私がもった。彼女は礼を言った。
店を出ると、彼女は夜風を避けるように足早に駐車場を横切った。運転席に乗り込むと、すぐさまスマートフォンを操作し始めた。
彼女と会うことは二度とないのだろうなと思いながら、うつむいている横顔を見つめた。画面に夢中でこちらを振り返ることは一度もなかった。
私は駐車場から車を出し、しばらく手間取ってから、よどんだ車列へ滑り込んだ。
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