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「なあ、とりあえずドリンクバーでいいだろ?」と純平の声が言った。

聡美は頬杖をついて窓の外を眺めたまま、うんと言った。それから純平のしょうもない話を聞くともなしに、冬の荒涼としたビーチをぼんやり見つめていた。ゴミやら丸太やらに縁どられた海岸線には人の姿はない。野犬が一匹いて、餌になりそうなものを探してうろついているだけだ。

「ゴチュモンハ、オキマリニナリマシタカ?」、片言の日本語に、窓から振り返った瞬間、聡美は墜落の感覚に打たれた。突然足元にぽっかり開いた穴に、椅子ごと呑み込まれてしまうような感覚。聡美は反射的にテーブルの端を両手でつかんだ。ブラジル人とおぼしきその青年は純平から注文を聞くと、端正な顔に感じの良い笑みを浮かべて小さくうなずき、引き返していった。

「なに呆けた顔してんだ? さっきのやつに一目惚れでもしたか?」、純平はそう言うと、テーブルの下で脚を絡めてきた。いつの間にか靴を脱いだ足が、スカートの中に滑り込んでくる。聡美はぎゅっと股を閉じて侵入をはばんだ。「やめてよ。今そんな気分じゃないんだから」

「聡美さあ、来月でもう三十だろ?」、足を引っ込めながら純平が言う。「惚れた腫れた言ってる年でもねえだろう。どうだい、おれっちと一緒になるのは? そこそこ幸せにするぜ?」

「飲み物取ってくる」、聡美は立ち上がった。

その夜、聡美はデニーズの駐車場にとめたラパンの中で、青年が出てくるのを待った。店の脇にとめたバイクにまたがろうとしているところに駆け寄り、「ブルーノ君?」と声をかけた。「私のこと覚えてる? ほら、中学のとき一緒だった中原よ」

ブルーノは聡美のことを覚えていた。しばらくその場で思い出話をしたあと、聡美は思い切ってアパートに来ないかと誘ってみた。ブルーノはあの感じの良い笑顔でうなずいた。

それから三年後、聡美は純平と結婚した。娘もできた。純平が請け合ったとおり、そこそこ幸せでもある。来月でもう四十になる。

今ではブルーノがどんな顔立ちをしていたか、上手く思い出せなくなっている。あの墜落の感覚さえも。もしあのとき、テーブルの端を掴まず、そのまま穴を落ちていったらブラジルまで抜けていったのだろうか。

そしてときどき、あの犬のことを思う。餌を求めて冬の海岸をうろついていた犬だ。結局、あのあとどうなったのだろう、と。


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