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最初に吐いたのはソフトボールだった。終電の車内でとつぜん吐き気を覚え、急いで仕事の鞄をあけて袋を探しているときに、それは僕の口からぽとりと床に落ちた。

ソフトボールはころころと床を横断し、向かいの席に座っている背広の男性の革靴に当たってとまった。男性は身をかがめてボールを拾い、「あなたのですか?」とでも言うように僕のほうを見た。僕は曖昧にうなずいた。男性は僕にボールを手渡して席に戻り、スポーツ新聞を読み始めた。

その胃液にまみれたソフトボールは、ずいぶんと使い込まれてはいるものの、普通のソフトボールだった。汚れは拭いても取れないくらいボールに馴染んでいて、縫い目も一部ほどけている。僕は鞄の中から見つけたコンビニの袋にボールを入れてアパートに持ち帰った。

次に吐いたのは、映画のチケットだった。『スターウォーズ/最後のジェダイ』のチケットで、すごく観たかったけれど、仕事が忙しくて結局行かずじまいになった映画だ。せっかくなので、僕はTSUTAYAに行ってDVDを借りて観てみたけれど、そんなに面白くなかった。

それから僕はいろんなものを吐いた。早稲田大学の入学手続き用紙、激レアのトレーディングカード、江戸川乱歩の初版本、ゲームボーイ、マイルス・デイヴィスの限定盤レコード……。どれも当時は死ぬほど欲しかったけれど手に入らなかったものだ。そして今では僕にとって意味のないものばかりだ。

そして、僕はとうとう人間を吐き出した。高校時代に恋焦がれた弓子さんだ。彼女は制服を着たまま、僕の口から出てきた。生きてはいなかったけれど、ずっと家に置いていても腐ったりしなかった。

そして僕は、自分の影が薄くなっていることに気づいた。どんなに強い陽の光を受けても薄いままだった。そしてどんどん影は薄くなっていき、ある日、僕は影を失った。

周りの人からは人が変わったとよく言われるようになった。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

ただ、鏡を見るたびにこう思うのだ。鏡の向こう側にいるのが本物で、こちら側の僕は偽物じゃないのかと。この僕はただの鏡像であり、彼の動きを忠実に模倣する影のようなものではないのかと。